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中間市の名所・文化財

ページID:0001610 更新日:2022年11月18日更新 印刷ページ表示

名所

垣生公園

垣生公園の画像中間市の名所といえば、市内最大の都市公園である「垣生公園」がまず挙げられます。自然が多く残り四季折々の植物が生い茂っています。池に架かる赤橋を渡ると、埴生(はにゅう)神社の境内に通じています。
平成23年4月には公園敷地内に、地域交流センターや新鮮市場さくら館もオープンし、市民が集う憩いの場として、ますます賑わいを見せています。

 

屋根のない博物館

屋根のない博物館の画像

「中間市に新しい観光名所を」と平成元年につくられた緑道公園です。旧国鉄香月線の跡地を利用しています。モアイ像やスフィンクスなど世界中の有名な石像のレプリカ30体余りを配した緑豊かな空間は、見る人に古代遺跡を訪れているような感覚を与えてくれます。

 

 

関連リンク

公園

文化財

垣生羅漢百穴

羅漢百穴

県の文化財に指定されている古墳時代の横穴群集墓で、市内最大の都市公園である垣生公園内に位置しています。

堀川の中間唐戸

唐戸

元和7年(1621)、福岡藩初代藩主・黒田長政の命により、治水と水上輸送、かんがい用水の確保などを目的に運河「堀川」の掘削が始められます。中間市から水巻町、八幡西区折尾を通って洞海湾に至る大工事です。しかし、2年後、長政の死により工事は中断、工事再開は130年後のことでした。宝歴12年(1762)、6代藩主・継高の時代に、遠賀川からの取水門「堀川の中間唐戸」の完成をもって、堀川はついに全面開通しました。「唐戸」には水門という意味があり、細長い板を水門の溝に入れ、その枚数によって水量を調節するユニークなものです。県指定文化財です。

猫城址(ねこじょうし)

猫城址

猫城は、高さ20メートルほどの丘陵に、室町時代、麻生氏の端城として築かれました。麻生氏と宗像氏の数度の合戦の場となりましたが決着がつかず、中間市の市域は両氏によって分割統治されることになりました。このため、天正6年(1578)に猫城は宗像氏の出城となりました。猫城からのろしを上げれば、遠賀、鞍手、宗像一円に合図ができ、敵が攻めれば高くなり、城から攻め出れば低くなるとの言い伝えもあります。天正8年(1580)、鷹取城主・毛利鎮実率いる1000人の軍勢との合戦が有名です。現在城跡には月瀬八幡宮の社が建っています。

御座瀬山と御茶屋跡

御茶屋図

福岡藩藩主・黒田長政の時代に底井野に遊猟場が設けられ、2代藩主・忠之の代の寛永15年(1638)、御座瀬山に別荘が建てられました。これが底井野の御茶屋といわれるものです。3代藩主・光之の時代が最も充実していたといい、藩主や家老などが月見や花見、舟遊びなどを楽しんだといいます。その後次第に縮小され、寛政8年(1796)に一旦廃止となるものの、黒崎宿にも近く交通の便も良かったことから文化9年(1812)に再開されました。現在、跡地には底井野小学校が建っており、暦代藩主が遊んだ池はグラウンドとなっています。

上り立て遺跡

上り立(のぼりたて)遺跡は、現在の市営野球場周辺にあたる丘陵にあった、弥生時代中期から後期中ごろ(およそ紀元前50年~西暦50年の100年間)の墳墓群です。石棺11基と壷棺1基が見つかっています。このうち第2号石棺から人骨とともに鉄戈(てっか)と貝輪(かいわ)が発見されました。

鉄戈

鉄戈の画像

鉄戈は長さ約40.5センチメートル。弥生時代の鉄製武器の一つで、木製の柄を刃の付け根に直角につけたものです。もともとは馬上などで使用する武器ですが、国内のものは柄の接続部が小さく、儀式などで使われていたのではないかと考えられています。

貝輪

貝輪の画像

貝輪はゴホウラと呼ばれる貝を加工したもので、被葬者の腕に装着された形で発見されました。ゴホウラは南海でとれる貝で、北部九州の人びとが遠く東南アジアなどと交易していた証拠といえます。

唐戸の大クス

クス

唐戸公民館のそばにある2本のクスノキが市文化財(天然記念物)の指定を受けました。2本はともに高さ22メートル、胴回りはそれぞれ3.3メートルと4.8メートルです。樹齢は約250年~300年。堀川の開削や中間唐戸の完成よりも古いものです。

関連リンク

歴史民俗資料館