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市内の文化財

ページID:0001955 更新日:2022年11月18日更新 印刷ページ表示

中間市には、縄文時代から近代まで様々な文化財があります。ここでは、市内の文化財の一部を紹介します。

上り立遺跡出土「鉄戈」と「貝輪」

上り立(のぼりたて)遺跡は、現在の市営野球場周辺にあたる丘陵にあった、弥生時代中期から後期中ごろ(およそ紀元前50年~西暦50年の100年間)の墳墓群です。石棺11基と壷棺1基が見つかっています。このうち第2号石棺から人骨とともに鉄戈(てっか)と貝輪(かいわ)が発見されました。鉄戈は長さ約40.5センチメートル。弥生時代の鉄製武器の一つで、木製の柄を刃の付け根に直角につけたものです。もともとは馬上などで使用する武器ですが、国内のものは柄の接続部が小さく、儀式などで使われていたのではないかと考えられています。貝輪はゴホウラと呼ばれる貝を加工したもので、被葬者の腕に装着された形で発見されました。ゴホウラは南海でとれる貝で、北部九州の人びとが遠く東南アジアなどと交易していた証拠といえます。

鉄戈貝輪

垣生羅漢百穴

垣生羅漢垣生公園西側にある小高い丘は、羅漢山と呼ばれています。ここには、ちょっと見には戦時中の防空壕のような横穴が無数に開いています。実はこれは、古墳時代後期(6世紀後半)のお墓なのです。「垣生羅漢百穴」と呼ばれ、県指定文化財となっています。発掘によってこの丘が広い範囲で人為的に盛り土されていることがわかりました。

猫城址

猫城址の画像

猫城は、高さ20メートルほどの丘陵に、室町時代、麻生氏の端城として築かれました。麻生氏と宗像氏の数度の合戦の場となりましたが決着がつかず、中間市の市域は両氏によって分割統治されることになりました。このため、天正6年(1578)に猫城は宗像氏の出城となり、家臣の吉田倫行率いる150余人の兵が守っていました。猫城からのろしを上げれば、遠賀、鞍手、宗像一円に合図ができ、敵が攻めれば高くなり、城から攻め出れば低くなるとの言い伝えもあります。天正8年(1580)、鷹取城主・毛利鎮実率いる1000人の軍勢との合戦が有名です。現在城跡には月瀬八幡宮の社が建っています。

御座瀬山と御茶屋跡(ござのせやま・おちゃやあと)

御座瀬山と御茶屋跡(ござのせやま・おちゃやあと)の画像

福岡藩藩主・黒田長政の時代に底井野に遊猟場が設けられ、2代藩主・忠之の代の寛永15年(1638)、御座瀬山に別荘が建てられました。これが底井野の御茶屋といわれるものです。3代藩主・光之の時代が最も充実していたといい、藩主や家老などが月見や花見、舟遊びなどを楽しんだといいます。その後次第に縮小され、寛政8年(1796)に一旦廃止となるものの、黒崎宿にも近く交通の便も良かったことから文化9年(1812)に再開されました。現在、跡地には底井野小学校が建っており、暦代藩主が遊んだ池はグラウンドとなっています。

唐戸の大樟

クス

唐戸公民館のそばにある2本のクスノキが市文化財(天然記念物)の指定を受けました。2本はともに高さ22メートル、胴回りはそれぞれ3.3メートルと4.8メートルです。樹齢は約250年~300年。堀川の開削や中間唐戸の完成よりも古いものです。

堀川の中間唐戸

堀川の中間唐戸の画像

江戸時代、福岡藩初代藩主・黒田長政の命により、治水と水上輸送、かんがい用水の確保などを目的に運河「堀川」の掘削が始められます。中間市から水巻町、八幡西区折尾を通って洞海湾に至る大工事です。元和7年(1621)のことでした。しかし、2年後、長政の死により工事は中断、工事再開は130年後のことでした。宝歴12年(1762)、6代藩主・継高の時代に、遠賀川からの取水門「堀川の中間唐戸」の完成をもって、堀川はついに全面開通しました。「唐戸」には水門という意味があり、細長い板を水門の溝に入れ、その枚数によって水量を調節するユニークなものです。県指定文化財です。