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中間市の歴史

ページID:0001414 更新日:2022年11月18日更新 印刷ページ表示

中間市域は肥沃な遠賀平野に位置していることから古代より稲作が盛んにおこなわれ、弥生時代の農耕文化の伝わりの指標となった「遠賀川式土器」など農耕文化を伝える遺物が多数出土しています。また、古墳時代後期(5世紀末~6世紀後半)には、現在の垣生(はぶ)公園にある垣生丘陵周辺に横穴式の群集墓が数多く作られました。これは「垣生羅漢百穴」と呼ばれ県指定文化財となっています。

室町時代には(現在の芦屋町山鹿を拠点として、八幡西区や遠賀郡、中間市、直方市などに所領を持つ)麻生氏と(現在の宗像市を拠点とし、遠賀川西部に勢力を伸ばす)宗像氏の両軍がにらみ合い、数度の合戦によっても決着がつかず、川西を宗像領、川東を麻生領に分割したことが古文書に書かれています。
 江戸時代には福岡藩の所領になりました。遠賀川の度重なる氾濫を防ぐため、遠賀川堤防の改修と堀川の掘削が始められます。

明治末期から昭和初期には、この地で発見された石炭が国の重要なエネルギー源となり、炭坑のまちとして筑豊炭田の一翼を担います。石炭輸送には当初、「川ひらた」と呼ばれる舟が遠賀川と堀川を下っていましたが、明治24年(1891)に筑豊本線、明治45年(1912)に香月線が開通すると、鉄道の大量輸送に押され、川ひらたは徐々に姿を消して行きました。人口も増え続け、明治末の4,800人から昭和34年(1959)には46,000人にまでなりました。

  • 明治22年(1889)に中間村と岩瀬村が合併して長津村に
  • 大正11年(1922)に町制施行で長津町に
  • 大正13年(1924)に町名変更で中間町に
  • 昭和7年(1932)に中間町と底井野村が合併して中間町に
  • 昭和33年(1958)11月に市町村合併特例法に基づき市制施行し中間市に
  • 中間市の歴史年表(PDF:1,133KB)
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